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「山椒魚」

井伏鱒二

新潮文庫


1 推薦文

 山椒魚は悲しんだ。
 彼は彼の棲家(すみか)である岩屋の外に出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて外に出ることはできなかったのである。今はもはや、彼にとっては永遠の棲家である岩屋は、出入り口のところがそんなに狭かった。そして、ほの暗かった。強いて出て行こうとこころみると、彼の頭は出入り口を塞(ふさ)ぐコロップの栓となるにすぎなくて、それはまる二年の間に彼の体が発育した証拠にこそなったが、彼を狼狽(ろうばい)させ且つ悲しませるには十分であったのだ。
「なんたる失策であることか!」
 彼は岩屋のなかを許されるかぎり広く泳ぎまわってみようとした。人々は思いぞ屈せし場合、部屋のなかをしばしばこんな具合に歩きまわるものである。

 冒頭文を一読してみると、日本では天然記念物になっている両生類のサンショウウオの話であることがわかる。どうやら彼は、河の流れによってできた岩屋にのんびりとすごしていたら、体が大きくなってそこから出られなくなってしまったという状況らしい。もちろん、サンショウウオが話をすることはできないはずだから、この文章は擬人法によって表現されている。作者はサンショウウオの立場に立って、彼の心境を述べているが、それがあまりにリアルに表現されているので、読む側も閉塞状況の中に自分の感情を移入してしまうことになる。
こうした状況を自分自身に当てはめてみることは生理的にいやな気持ちになるが、想像してみると「たまらない」という気持ちが強く出てくる。私は生来暗いところや狭いところが苦手で、修学旅行のダイビング体験も今でも暗い思い出となっているような人間だから、決してこんな状況に自分を置かないようにしてきたつもりである。
 ところが、これが身体的なことではなく、精神的な状況とするとどうだろうか?これはちょっと怖い。なぜなら、知らず知らずのうちに抜け出せないような閉ざされた状態に陥っているということはしばしばあるからだ。
 文庫本でわずか10ページ足らずの作品であるが、その内容は長編小説を越える力がある。短編集なので、その他有名な『屋根の上のサワン』も含まれている。

 作者の井伏について補足すると、彼は1898年に広島の福山市で生まれ、担当教授とのいさかいによって早稲田大学を中退し、1923(大正12)年に『幽閉』(注 人と接触のない状態に閉じ込められること の意)という題で後の『山椒魚』を発表する。後広島の原爆をモチーフにした『黒い雨』(1966)は高い評価を受けている。
「井伏の通ったあとには草も生えない」(武田泰淳)という評言がよく知られているが、描写力の巧みさは短編『山椒魚』を読むだけでもよく伝わってくる。この作品が彼の出生作とされている。明治45年に福山中学(現・広島県立誠之館高校)に入学し、寄宿舎の生活の中で中庭にあった池に山椒魚を目撃したことが作品の由来となっているらしい。
 高校時代の体験は、一生を支える体験となる可能性もあることがよくわかる。


2 クライマックスの文章

 誰しも自分自身をあまり愚かな言葉で譬(たと)えてみることは好まないであろう。ただ不幸にその心をかきむしられる者のみが、自分自身はブリキの切屑(きりくず)だなどと考えてみる。
たしかに彼等は深くふところ手をして物思いに耽(ふけ)ったり、手ににじんだ汗をチョッキの胴で拭ったりして、彼等ほど各々好みのままの恰好をしがちなものはないのである。
山椒魚は閉じた目蓋(まぶた)を開こうとしなかった。何となれば、彼には目蓋を開いたり閉じたりする自由と、その可能とが与えられていただけであったからなのだ。
その結果、彼の目蓋のなかでは、いかに合点のゆかないことが生じたではなかったか!目を開じるという単なる形式が、巨大な暗やみを決定してみせたのである。その暗やみは際限もなく拡がった深淵であった。誰しもこの深淵の深さや広さを言いあてることはできないであろう。
-----どうか諸君に再びお願いがある。山椒魚がかかる常識に没頭することを軽蔑しないでいただきたい。牢獄の見張人といえども、よほど気難しい時でなくては、終身懲役の囚人が徒らに歎息をもらしたからといって叱りつけはしない。 「ああ、寒いほど独りぼっちだ!」
注意深い心の持主であるならば、山椒魚のすすり泣きの声が岩屋の外にもれているのを聞きのがしはしなかったであろう。




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